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あれから10年  [自分]

1995年1月17日午前5時46分
突如、爆弾が爆発したかのような耳を切り裂く爆音と共に
大地が怒りを爆発させたかのような揺れ
恐怖よりも先に「何が起こったんだ?」
その時はそう思いました。
状況が理解できない上に外の様子も解らない。
何より自分達が体験したことの真実を知らなかったから。

家の中は寒く電気がとまり、辺り一面はガスの臭い
全てのものが床に投げ出され危険地帯と化した廊下を歩き
何時終わるか知れない揺れに耐えながら
家族で外に出たとき全てを理解しました。
大変なことが起こったのだと・・・

家は傾き、近くでは家が崩れている。
うめき声と共に泣き声も聞こえてくる。
遠くを見るとまだ6時前だと言うのに妙に明るい場所が見え
そこからは煙が立ち昇り、まだ暗がりの空を赤く染めている。

家が倒壊しかけていたこともあり急いで玄関から道に出てみると
地面は裂け、その間からはガスが漏れている。
場所によっては引火して火柱を上げている所まである。
まるでここは戦場の真っ只中のように・・・

誰もがパニックに陥り、何も情報が入ってこない中
救急車も消防車も来ないまま行なわれる近隣住民による救助活動
「何をしたらいいのか?」「どうすればいいのか?」
気が付けば頭とは関係なく体が動いていた。
でも、人の力ではどうにもならなかった・・・
ただ見ていることしかなかった。助けられなかった。
ただ小さくなっていく、消えていく声を聞くことしか出来なかった。
何も出来なかった。

友人、親戚が亡くなった事を数日後に知りました。
あの時助けにいけたら、もしかしたら・・・
こんな思いに襲われました。
それに、信じられなかった。
ほんの2週間前まで元気だったのだから。
友人、親戚のいた場所に行き嘘なんだろ?まだそこにいるんだろ?
ただただそこに立ち名前を呼ぶことしか出来なかった。

でも、その時は私たちも必死でした。生きることに。

その後、電気もガスも水道もつながり
被害状況を知るところとなり真実が見えてきました。
本当の真実が・・・
日に日に増えていく死者、被害
時間が経つに連れて全てが見えなくなっていきました。

けど、悲しんでばかりいられない。
悲しんだところで帰ってくる訳じゃない。
悲しんだところで何にも始まらない。

多くの人に助けられ、そして助け合い
今までほとんど感じることが出来なかった人の温かさ、そして優しさ。
そして大切さ。
全てあの時感じ、教わりました。

あの光景と声は今でも鮮明に覚えています。
そしてあの触れ合いも忘れることが出来ません。
あれから10年の時が流れました。

今では親戚の叔父の年齢よりも歳をとってしまいました。
親戚も友人もあの時のまま。
でも、今でも僕の心の中で生き続けています。

僕は亡くなった友人と多くのことを語り合いました。
他の人が聞いたら些細なことでも真剣に語り合いました。
そして将来の夢、不安を。
「二人で競争だ!どっちが先に夢を実現するか!」
「おう!勝った方が何か奢るんだぞ!」
・・・
「頑張ろうな」
これが最後に会った時の彼との会話になりました。

僕は父のような人になることが夢でした。
ずっと憧れていた父と同じ仕事に就くことが。
思春期になり反抗しそんなものにはなりたくないてことも思いました。
父の期待と、その期待が僕の中で不安となりそして重荷となっていきました。
でも、10年前のあの日から僕は人の為に出来ること
そして少しでも命を助けることが出来ないかと思い
父とは少し違いますが医療関係者として働いています。
そして友人との約束を果たしました。
どっちがあの競争に勝ったのか?
今、彼の想いは僕の想いと共に心の中やどりそして共に頑張っています。
だから結果は出ていません。

最近は忙しく彼に会いに行っていませんでした。
そして今年10年目、彼の前で
「どうだい?俺も大きくなっただろ?
 最近は忙しくてなかなかお前に会いにこれなくて、ごめんな。
 でもお前のこと忘れたことはないぞ。
 だってこうなれたのもお前がいたからだし、それにずっとお前は
 俺の心の中にいてくれてるからな。ありがとうな。
 来年の1月で10年か。
 いいよな。お前は、まだ10代のまんまなんだからな~
 俺なんかもう30前だぜ。羨ましいよ~若いよな~
 そうだ、でもお前も年齢的には俺と同い年だし今度お酒持ってくるから
 一緒に飲もうぜ。
 そして昔みたく馬鹿みたいにいろいろ話そうぜ。」

あの日、2005年1月17日
本当の意味で彼との競争の決着が着いたような気がします。
一緒にゴールしたって
 
淡路島北淡町野島断層を震源とするマグニチュード7.3の地震。
死者6434人・行方不明3人・重軽傷者者43792人
全半壊家屋274181棟・焼失家屋約7500棟・避難者約35万人
断水130万世帯・停電260万戸・ガス停止86万世帯・電話不通30万回線・
同時多発火災約290件

この地震で亡くなられた皆様、心よりご冥福をお祈りいたします。
あのことを忘れないよう、そして彼に笑われないよう安心できるよう
これからも頑張りたいと思います。

「頑張るから見ててくれよ!」


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野うさぎ

もう10年ですか?月日の流れは、速いですね。恐かったでしょうね。
でも、お父さんの仕事が理解できて、進むべき道を、決めた。なんて、
素晴らしいです。耐震偽造問題が起きてる中、自然災害は、いつ起こるか
分かりません、貴重な記事では、ないかと思います。
by 野うさぎ (2005-12-09 19:41) 

cloud9

10年・・・、早いですね。
当日母親が大阪に行く予定でしたが震災で新幹線がストップして行けませんでした。
ちょうど祖父の法事だったのですが、きっと祖父が危ないから来るなと
言ってくれたのかなと思ったりもします。
でなければ前日に行ってたのですから・・・。
by cloud9 (2005-12-09 23:13) 

ayumusic

とてもリアルで、切実な出来事でしたね。私はそのとき大阪で、食器棚が倒れ掛かったきたくらいでしたが、電車が止まって、どうしても行かなければならかった加古川行きのバスの乗ったときの無言の乗客たちの表情がとても印象に残っています。みんなバスの車窓から被災した風景を見つめ、何かを考えていた、、。
by ayumusic (2005-12-10 00:06) 

kiki2jiji2

私も震災で祖父を亡くしました。千葉に住む私が飛んで行き葬儀の準備をしました。でも、葬儀がすぐに出せませんでした。それは神主さんが忙しいし、さらに火葬ができない。死者が多すぎて…ということでした。傾いた家。亡くなった祖父。倒れた高速道路…私は被災していませんが、このことは一生忘れない。
by kiki2jiji2 (2005-12-10 07:12) 

nyan

最後の言葉が力強いね!
by nyan (2005-12-11 01:37) 

hako

貴重な記録を残してくれて、感謝したいです。直接の関係者は居なかったのですが、改めて、もの凄いことだったのだなと認識できました。
復活した都市をまだ見に行けていません。
by hako (2005-12-11 15:07) 

よっちゃん

あれから10年・・・早いですね。あの日、私の住むところまで
揺れがきたのを覚えています。
ボランティアに行くことを周りに反対され行けず。出来たことと
言えば、わずかながらの募金のみ。ホントに申し訳なく思った
のを思い出しました。今週の神戸は、心して見てきますね。
by よっちゃん (2005-12-11 18:38) 

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